神に捧げ物をすることには実は原則がある

私は家庭の不和がきっかけで1997年に主イエスを信じるようになりました。その後、主の言葉を実践することで、家庭内の争いはなくなりました。主は私の家族を救い、私を痛みから救い、人生の希望を与えてくださいました。

初めて教会の集会に行った時のことを覚えています。牧師はヨハネによる福音書第十二章の第一節から八節を読み、マリアが主イエスに香油を塗ったことや、貧しいやもめがした献金について説教し、私はこれらの話を聞いてとても感動しました。牧師は私たちにこう言いました。「兄弟姉妹の皆さん、私たちは主への信仰においてマリアや貧しいやもめのようになり、主にもっと捧げ物をしなければなりません。貧しいやもめは自分の食費を主に捧げ、マリアは非常に貴重なナルド一斤を主に塗りました。つまり、マリアは自分の持ち物から一番いい物、一番貴重な物を主に捧げました。そして、このような行動を主は最も歓迎すべき、賞賛に価するものとされています。ですから、私たちもお金を捧げれば捧げるだけ宝を天に積むことになります。そうする者が主に最も祝福され、そのような者だけが今世で百倍の恵みを受け、来たるべき世で永遠の生命を得ることができるのです…。」集会の後、私は多くの兄弟姉妹が献金箱にお金を入れに行くのを見て思いました。「主イエスは人類が贖われるように十字架にかけられて亡くなられ、私を痛みから救ってくださった。だから、主の愛に報いるために主にもっと捧げ物をするべきだ。これからは貧しいやもめとマリアに倣って献金することで主を愛そう。そうすれば主に喜んで頂き、牧師にも好かれる」

神への捧げ物,捧げ物,

それ以来、私は牧師が説いた通りに実践し、普通なら貯ていたであろうお金を特に主への捧げ物として費やしました。

私が最初に主を信じ始めて間もない頃で、ちょうどクリスマスの日のことを覚えています。クリスマスの夜、私は教会に行って五百元を寄付しました。食料などの諸費を何とか節約したお金です。他の教会から来たある牧師が私がそんなにたくさんのお金を捧げているのを見て、喜んで私を祝福して、私に大きな祝福が与えられるように主に祈ってくれました。私の献金にどれほど牧師が喜んでいるかを見て私は「この先生がこれほど満足している捧げ物なんだから、主は必ず受け取ってくださる」と思いました。主が私の捧げ物を受け取ってくださると思うと、心にこの上ない甘美な思いを感じました。それから数日間、私はもっと積極的にお金を捧げました。手元に少しでもお金があれば必ず捧げていました。教会の牧師も捧げ物をし続ける私を褒めちぎり、私が祝福されるようによく祈ってくれました。その頃の私はいつも自分の観念と想像の中で生きており、たくさんのお金を捧げさえすれば、牧師に喜ばれ、主イエスに必ずほめて頂いて、主に最も喜ばれる者となるのだと信じていました。

ところがその後、牧師と長老がお互いに嫉妬を抱き、地位と捧げ物をめぐって口論し仲たがいしました。その結果、教会は完全な混沌に陥り、私はそこに聖霊の存在による平和と喜びを見出せませんでした。

この光景を目の当たりにして、ひどく失望せずにはいられず、三自教会を離れ、主の足跡を求めて他の教派へと向かいました。因信称義(「信仰による義」)派、呼喊派やその他の教派に行きましたが、どこに行ってもほぼ同じ状態であることが見受けられました。しかも、そこの牧師の説教はいつも捧げ物の教えで、主の祝福をもっと頂けるようにもっと捧げ物をするようにと信者たちに説いていました。それで、私はいつも欠かさずそれらの教会に献金をしました。牧師と長老は捧げ物をする人を常に好み、捧げ物を欠かさない人が祝福されるようにといつも喜々として祈っていたので、私は牧師たちのやり方が正しいと信じていました。

2012年、ある姉妹が私に全能神の国の福音を伝えてくれました。求め検討することで、全能神がまさに主イエスの再臨だと確証したので、教会生活を始めたのです。こう考えました。「これまでずっと主を信じて、いつも捧げ物をしてきた。今、私はついに主の再臨をお迎えしている。もっと捧げ物をすることで神様の愛に報いたい」しかし、全能神教会には献金箱がないことを知り、思いました。「宗教界の牧師や長老は捧げ物をする教えをいつも説くのに、なぜ全能神教会の責任者はこのことに関心がないのだろう。」私には自分なりの考えがありましたが、兄弟姉妹が皆敬虔な生活を送り、福音の伝道と神の証しに自らを捧げ費やし、善行を積んでいるのを見て非常に感動しました。それで私は尚もお金を捧げて善行を積みたいと思ったのです。

捧げ物,神への捧げ物,

ある時、私は教会の姉妹楊(ヤン)さんが福音の伝道でひどく疲れているのを見たので、福音の働きへの支援の印に三百元を渡し、貯めていたお金を神にも捧げました。すると意外なことに、楊(ヤン)さんが私にとても真剣に言いました。「李さん、全能神教会で私たちがすることには全て原則があります。献金もそうです。お金をただ受け取るわけにはいきません」

彼女にそう言われて、私は非常に困惑し、「神に捧げ物をするのは全く当然のことだ。宗教では主を信じる者はいつも捧げ物をしなかったのか。どんな原則が必要なのか」と思いました。それでこう言いました。「私は主を信じる者として、他の教会の集会に行ったことがあり、そこの牧師たちはよく捧げ物をすることについて説教して、献金するように兄弟姉妹に訴えていました。私もよく献金していました。でも牧師が献金の原則などという話について説教するのは聞いたことがありません。献金に関して全能神教会と他の教派には何か違いがあるのですか」

楊さんは愛想よく言いました。「神に捧げ物をするのは然るべきことですし、私たちが被造物として果たすべき本分です。でも、捧げ物をすることには原則があり、またそれ以上に求めるべき真理があります。先ず献金に関する教会の原則を見てみましょう。『神の働きには人の調整が必要であり、教会の各階級の指導者や同労者が神の働きを維持する上で、神の選民に養いと潤しと導きを与えることが求められることは、神を信じる者なら誰もが極めて明確に知るところである。神の国の福音が拡大するには、神の選民が奔走して自分自身を費やすことが求られる。それに加えて、神の選民が用いる神の言葉のさまざまな書籍や真理の伝達には印刷と配布が必要である。従って神の救いの働きは、神の働きを受ける神の選民の一人ひとりのために代価を払い、そうした費用は全て神の選民が神に捧げる献金によって支えられる。

従って、神は全ての選民に期待を寄せておられ、神に捧げ物を行うことは被造物の本分、義務であり、神のために自分を費やすことは彼らが果たすべき責務である。これは当然の道理であり義務である。各人がこの事柄をいかに理解しているかにかかわらず、神の働きのために自身の負担分を捧げるべきである。十分の一を捧げようと主張する者もいれば、異なる形で献金する者もいる。それは自発的に捧げられている限り、神は喜んで受け取られる。神の家の規定では、神への信仰歴が一年未満の者は捧げ物を行うことを一時的に免除され、貧しい者は捧げ物を義務付けられず、各自の信仰に従って捧げ物を行うことが許される、とだけ規定している。教会は家庭の争いにつながるような捧げ物は受け入れない。献金する者は何度か祈り、自身が完全に自発的であり決して後悔しないという確信して初めて献金することを許可される。……

捧げ物をするための原則は以下の通りである。神の働きを知らねばならず、神への信仰を通して真理を本当に認識したと悟ることができるようになると、人間としての生き方を知り、完全な救いを得る道を歩み、神の愛による御恩を感じ、自身の良心が安らぐように人としての自身の義務を果たさなければならないと感じる。

この時に捧げ物をするならば、それは全く自発的であり、同時に良心と理知を有しているため、喜びと慰めを感じる。たとえ長年神を信じていても、自分が真理の追求者だともやがて完全な救いを得るとも感じていなければ、何の捧げ物をする必要はない。捧げ物をしたところでそこには完全な自発性がないからである。……教会は説教やその他の理由で他人に捧げ物をするように求めることを許さない。捧げ物をすることについて熱弁する者は皆、下心を持っている。捧げ物をすることは、各自の良心と理知、そして真理の認識によるのである』」(『全能神教会の仕事計画の記録・選集』の「教会設立と教会生活管理の原則」より)

楊(ヤン)さんは交わりを続けました。「李(リー)さん、捧げ物の原則によれば、自分の所有物を捧げることは私たち一人ひとりが果たすべき本分であり義務なのですが、自分が真理を理解しているかどうか、そしてそうする意志があるかどうかに従って実践しなければならないのです。なぜなら神は私たちが外面的にお金を捧げることを望まれないからです。神は一番多く捧げる者ならば誰でも祝福なさるわけではありません。神が求められるのは私たちの心であり、私たちの刹那的な衝動や一時的な熱意ではないのです。もし私たちが神の御心を理解し、神による救いを経験するゆえ神の愛に報いたいと思い、何度も祈り求め、神の祝福を得ることを意図せずに喜んで自発的に捧げ物をすれば、そのようなものだけが神が受け取ってくださる捧げ物です。もし神の御心を求めず、本当はその意志がないのに単に大金を捧げるだけならば、いつかそれを後悔するようになるでしょうし、神はこのような捧げ物は受け取られません。ですから神の家では、真理を理解せず、自ら捧げ物をしたいという意志のない人は捧げ物をしてはならないと定められています。なぜなら神は人に意志に反して何かをすることを強制なさらないからです。現在、あなたは教会に入ったばかりで、まだ理解していない真理がたくさんあります。熱心に神の御言葉を読むことに専念しなくてはなりませんし、真理を理解してから、真理の原則に従って捧げ物をしていいのです。このようにしてのみ、神はそれを記憶なさいます。それに全能神教会では、誰であれどんな口実を使おうとも、人々に捧げ物をしなさいと訴えてはいけないのです。そんなことをするのは間違った意図を抱いている人であり、取り扱い、鍛錬、警告の対象になります。人々にしつこく献金を求める指導者や同労者は解任になります。さらに、兄弟姉妹が捧げるお金は特定の個人ではなく神への捧げ物であり、兄弟姉妹からの捧げ物を個人的に受け取ったり、自分で勝手に使ってはいけません。捧げ物をこっそり盗む者はユダであり、深刻な状況においては教会を追放されます」

私は驚愕して言いました。「全能神教会はやはり宗教とは違いますね。捧げ物をするには真理を理解しないといけないし、このような原則と規定があります。これは心に神がいて神を畏れる人だけができることですし、今まで宗教では見たことがないものです。私が宗教に入って過ごした時間を思い起こせば、牧師は私たちが新しい信者か古くからの信者なのかとか、真理を理解しているかどうかなどには全く無関心でした。ただ兄弟姉妹に捧げ物をせよと訴え続け、『神は人々の捧げ物を喜ばれる。たくさん捧げた者だけが神に称えて頂ける』と言うだけでした。牧師はこのように説教して私たち皆に道を踏み外させ、たくさん捧げるほど大きな祝福を頂けると思い違いをするように仕向けました。

そのため、多くの兄弟姉妹が牧師に好かれて神の賞賛を得ようとしてお金を捧げてしまいましたし、自分が捧げたお金がありとあらゆる名目で結局は牧師と長老に巻き上げられるとは全く気づきませんでした。牧師がそんなことをするのは実に汚い策略です。ユダが捧げ物を盗んだのと同じではないでしょうか。そんな行為のなりゆきはとても深刻です。現在、全能神教会では信者が人に捧げ物をするように求めることを許していませんし、捧げ物の原則もあります。教会では先ず真理を理解することが求められ、その後で捧げ物をすることが許されます。捧げ物を個人的に横領したり浪費しようなどとする人は、状況に応じて然るべき罰が下されます。全能神教会は本当に公正で正義があり、真理が支配する教会です。楊(ヤン)さん、私は全能神が主イエスの再臨であるとすでに確信していますし、捧げ物はいたって自発的にやっていますから、どうぞ受け取ってください」

楊さんは優しく語りました、「李(リー)さん、捧げ物に誠意がこもっているとしても、原則に従って何回かお祈りを捧げなくてはいけません。と言うのも、後悔しないという確信があって、行いが純粋であって初めて捧げ物を神に受け入れて頂けるからです。それに私は自分であなたのお金を受け取ることはできません。お金を受け取るのにも原則があるからです。その原則の内容を見てみましょう。『教会の指導者、同労者、福音を伝える人は単独で兄弟姉妹から直接捧げ物を受け取ってはならない。少なくとも二人で共に捧げ物を受け取り、金銭が神の家に渡った証明として捧げ物をした兄弟姉妹に領収書を渡さなければならない。教会の上層に金銭を献上する取引は常に二人で共に行われなければならない。金銭は一人だけで運んではならない… 』(『全能神教会の仕事計画の記録・選集』の「神の家の資金管理及び使用の行政原則」より)李さん、神は私たちを知り尽くしておられます。私たちがサタンに深く堕落させられていることも、皆貪欲な本性を持っていて金銭欲が特に強いこともご存知です。そのため教会では献金の受け取りは二人でしなくてはならないと定めています。そうすればお互いを監視できますからね。これは神が私たちを守ってくださっているのです。今私は一人ですから、捧げ物の受け取りの原則に適っていません。数日後に担当の者と一緒に受け取りに戻ってきます。原則に従った実践だけが神の賞賛を頂けるのです」

楊(ヤン)さんの話を聞いて、私は言いました。「分かりました。全能神教会では、単に献金一つにも厳しい原則や条件がそんなにたくさんあるとは気づきませんでした。宗教界とは本当に違いますし、社会にあるどの部門や組織ともすごく違います。神の家での条件は全て人を守るためのものであり、全能神教会では確かに真理が支配していることが分かります」

楊(ヤン)さんは非常に感激して言いました。「その通りです。全能神は終わりの日に働きに来られ、何百万語もの言葉を表されます。これらの御言葉は全て真理であり、完全な救いを得るために必要な全真理を人に伝え、それによって人は全ての行動において真理の原則を持ち、真の人間らしく生きることができます。全能神は仰せられます。「あなたがたの運命のため、神に認められることを求めなさい。それはつまり、神の家の一員であることを自覚しているのなら、あらゆる事において神に心に安らぎと満足をもたらさなければならない。つまり、自らの行いを律し、真理にそわなければいけないということである。もしそれが到底できないというのであれば、神に嫌われ、見捨てられ、みなから拒まれることになる。ひとたびそのような状態に陥ると、神の家の一員であることはできない。これが神の承認を受けられないということである」(『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より)神の御言葉から、私たちは何事においても真理を求め、何事も神への信仰における原則によって対処しなくてはならないことが分かります。これが神の承認を得る条件なのです。私たちは神の私たちへの要求を全て遵守しなくてはなりません。そうして初めて神の加護を頂けるからです。そのため神は私たちに神への信仰において真理を受け入れ、真理を実践し、何事も真理の原則に従って対応することを求められます。私たちがそうして初めて神の御心に沿い、神の賞賛を頂けるからです。そうしなければ、私たちは神に忌み嫌われて拒まれ、他の全ての人々にも軽蔑されます。李(リー)さん、全能神が表される真理の全てが私たちに必要なものであり、全能神の御言葉を読む限り、真理の原則をさらに理解するようになるでしょう」

楊(ヤン)さんの交わりを聞いた後、私は自分が宗教において主を信じて過ごした時期のことをまた考えました。どの教会にも献金箱があり、牧師はよく人々にお金を捧げさせるように説教をしており、一番多く捧げた人が誰であれ牧師に高く評価されていました。私たちはお金を捧げる時はただ献金箱に入れます。捧げ物をすることに原則などありませんでしたし、ましてや領収書を求めることも私たちはしなかったため、捧げたお金のほとんどは牧師と長老の懐に納まってしまいました。しかし全能神教会は違います。お金を捧げるにしても受け取るにしても従うべき原則があり、このことで本当に私の見識が伸び、視野が広がりました。

楊(ヤン)さんが私の捧げ物を断わるのを聞いた時、私には分かりませんでした。しかし献金に関する原則を読み、神の御言葉についての楊(ヤン)さんの交わりを聞いたので、彼女が真理の原則通りに行動し、完全に神の御心に沿って行動していたことが今では分かります。全世界は今やサタンによるあまりの堕落のため、暗闇と悪の絶頂にあります。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」という格言は人々の座右銘となっており、誰もがお金を崇拝し、どこもかしこもお金と権力のやり取りで溢れています。どの団体もお金を稼ぎ方を考えており、災害があった地域に寄付された救援金も権力を濫用する貪欲な役人に横領されたりします。しかし、全能神教会だけは純粋な土地であることが私にはわかります。全能神ご自身が真理を表して人に糧を与えられるのは、人が自分の本分を果たす過程において真理を求めて理解し、真理の原則に従って行動し、そうして真理を獲得し、いのちを得て真の人間らしく生きられるようにするためです。これはまさに真の神の働きです。私はこの神への信仰の道を真剣に歩んで真理を求めることによって、原則をもって物事に対処して全能神の救いを得られるようになりたいと思います。

リ・フイ

関連した内容

  • この声はどこから聞こえてくるのか

    私は信心深い家に生まれ、親戚には伝道師も多くいます。私は幼い頃から両親にならって主を信じており、大人になってからも主に祈り、こう語りかけました。もし主を信じる夫に巡り合えるなら、夫とともにこの身を捧げて神に仕えましょう。そして私は結婚し、夫は本当に主を信じていたので、実際の職業として熱心な伝道者と…

  • その日、空は特に澄んで、晴れ上がっていました(その1)

    注:著者は、牧師達により伝えられてきた「信仰義認」や「一度救われた者は永遠に救われる」の観念に騙され、これに固執していました。それにより、神の終わりの日の福音を伝道する兄弟姉妹達との接触を拒んでいました。しかし、その後、著者の姉の家で、ある妹が神の国の福音を伝えるのを目の当たりにし、彼女と交流する…

  • クリスチャンの生活――罪を取り除く方法を知る(2)

    神様の裁きは私たちが罪から解放される唯一の道 スーザン姉妹は私の疑問を聞いて笑みを浮かべ、さらに話をしました。「実を言うと、それはずっと以前に聖書の中で預言されていました。主イエスはこうおっしゃいました。 『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。け…

  • カトリックの信仰:主は本当に再臨された

    レンシー(米国) 私の家族は全員が神様を信仰しています。私は子どもの頃から母と一緒にミサに参列し、神様は私たちに本当にたくさんの恵みを与えてくださいました。私たちは神様への感謝の気持ちで満たされ、主の再臨を切望していました。しかし、主が働き私たちを救うために本当に再臨された時、自分が主の働きに気づ…