【邪説】「神は人々に大きな奇跡を見せるべきだ。神は病人を癒し、悪霊を追い払い、人々に祝福を与えなくてはいけない。もし奇跡を見せず、人類に何のご利益ももたらさないなら、本当の神ではない。あなたたちが信じているこの全能神が本当の神なら、なぜあなたたちは今でも病気になるのか。なぜあなたたちの家庭は平和ではないのか。イエスの信仰者である私たちは、病気があれば治り、病気でない人の家庭には平和がある」という人がいます。

回答 全能神を信じる者でも病気になるし、家庭が平和ではないという理由で、全能神が真の神であることも、再臨された主イエスであることも否定する人々がいます。彼らは、もし全能神が真の神であるなら、全能神を信じる者たちを病気や災難から守るだろうし、その者たちの家庭は平和であるはずだと信じています。これは完全に人による誤解と想像です。神に関する偏った理解であり、全く神の御心に適いません。周知の通り、ヨブはヤーウェ神を信じていましたが、彼の家族は盗みや、全財産の略奪、子供の死といった災難に遭いました。ヨブ自身も全身が腫れ物で覆われるという病にかかりました。それでは、真の神を信じれば全てが平和であり病気も災難もないはずだと言うのなら、ヨブが体験したことについてどう思いますか。 私たちはヨブの体験から、ヤーウェが真の神であることを否定すべきでしょうか。

イエスは真の神です。これは誰にも否定できません。しかしペテロは主イエスに付き従う過程で、数々の困難と試練に遭遇しましたし、病気が絶えませんでした。使徒パウロも何度も鞭で打たれる、石を投げられる、海で遭難するといった多くの逆境に見舞われました。また、病気にもかかりました。他の弟子や使徒たちも多くの困難に遭いました。もし真の神を信じることで、平和で健康になれるはずだと言うなら、主イエスに付き従う弟子や使徒に降りかかったこれらのことをどのように説明できますか。主イエスが真の神ではないなどと実際に言えますか。

人の理解が表面的で偏っていることは明らかです。実際のところ、しるしや不思議を行ったり、病人を癒したり、悪魔を追い払ったり、人々に平和や物質的な恩恵を与えたりするか否かに基づいて、真の神であるかを確認することはできないのです。もししるしや不思議を行ったり病人を癒したり悪魔を追い払ったりするか否かだけで真の神を判定するならば、それは間違っています。ファラオの魔術師も杖を蛇に変えられなかったでしょうか(出エジプト記7:10−12参照)。また、長いあいだ魔術を行ってきたシモンも人々を奇跡で驚愕させ、神であるとさえ思わせることができたのではなかったでしょうか(使徒8:9–11参照)。当時のまじない医師や悪魔の王子も病人を癒して悪魔を追い出すことができたのではなかったでしょうか。

彼らも皆神だったのでしょうか。明らかに違います。彼らはただ奇跡を行うことができただけで、天地万物を創造することも、人類を創造することも、ましてや人類を救うこともできませんでした。神ご自身だけが天地万物を創造し、人類を創造することができます。神だけが地上での人類の生活を導くことができるのです。堕落した人類を罪とサタンの支配から贖うことができるのは神ご自身だけです。これはサタンや悪霊には成し遂げられないことです。従って、奇跡を起こし、病気を癒し、何らかの肉体的な恩恵をもたらすことができるか否かは、決してその人が神の働きを行なうか否かの判断基準にはなりません。神の働きを行なうか否かを判断するために何よりも注目すべきことは、その人が新しい時代を始めて古い時代を終わらせることができるか否か、真理を表して人々を罪から、そしてサタンの支配から救うことができるか否かです。神は人類を創造し、地上での人類の生活を導くことができます。サタンによって堕落した人々を罪から贖うことができます。そして最終的に、贖われた人類を徹底的に清めて変え、神の国へ導くことができます。これらはすべて神が既に成し遂げられた、或いはいずれ成し遂げられる働きであり、サタンにも悪霊にも人にも決して行えない働きです。更に、最も重要なことに、神は創造主です。万物を創造し、万物を支配し、万物を管理し、また万物を滅ぼすこともできます。始まりと終わり、最初であり最後であり、宇宙の全てを支配される唯一の真の神です。たとえ何の働きも行なわず何の奇跡も起こさなかったとしても、神は依然として神ご自身であり、唯一者なのです。これは誰にも否定できないことです。

そのため、全能神に付き従う人が時々病気になったり、たまたま平和でない家庭を持っていたりすることを見て、全能神は真の神ではないと結論付ける人々も出てくるでしょう。これは全く間違っていますし、神も神の働きも知らない愚かで無知な者の判断です。

主イエスはご自身が終わりの日に戻って来ると預言し、「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」(マタイ 24:27)と言われました。また、終わりの日には真理の御霊が来て、人をあらゆる真理に導くとも言われました(ヨハネ 16:13参照)。そして黙示録には、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」と繰り返し記されています(黙示録 2-3章参照)。

終わりの日には、受肉された全能神が主イエスの贖いの働きの土台の上に人を裁き人を清める働きを行われています。全能神が発せられた言葉は真理の聖霊の語りかけです。それは聖霊が諸教会に語る言葉です。全能神は、堕落した人々が救われ完全にされるために必要な真理を全て表されました。ご自身の語りかけを通して、全能神は何千年ものあいだ人類から隠されてきた奥義を明らかにし、神がもっているものと神であるものを表されました。ご自身の固有の性質と本来の姿を人類に明かしてくださったのです。

このことから全能神が終わりの日のキリストであること、唯一の真の神であることが十分証明されます。なぜならその御言葉は人が発せられるものではなく、その働きはいかなる人にもできるものではないからです。 全能神はこう仰せられます。

「神は人の本質を十分承知しており、あらゆる種類の人々に関連するあらゆる種類の行為を明らかにすることができる。神は人間の堕落した性質や反抗的行動を明らかにするのはなおさら得意である。神は世俗的な人々の中には住まわないが、人間の本性や世俗的人々の堕落のすべてを承知している。これこそが神である。神は世間を取り扱わないが、世間を取り扱う規則は知っている。なぜなら人間の本性を十分に理解しているからである。神は人の目では見ることのできず、人の耳では聞くことのできない聖霊の働きについて、現在のものも、過去のものも知っている。これには、人生哲学ではない知恵や、人々が推測するのは難しいと思う奇跡も含まれている。これが、人々に明らかにされており、また隠されてもいる神そのものである。神が表すものは、特別な人のことではなく、聖霊に本来備わっている特質と存在である。神は世界中を巡回しないが世界のすべてを知っている。神は知識も洞察力もない「類人猿」と接触するが、知識よりも高く、偉人を超えた言葉を述べる。神は、人間性を持たず、人間の慣習や生活を理解しない鈍感で頭の鈍い人々の集団の中で暮らすが、人類に通常の人間性のままに生きるよう要求し、同時に人類の卑劣で粗野な人間性を明らかにする。このすべてが、どの生身の人間そのものよりも高い神そのものである。……神が行う働きはすべて、神の性質を人に明らかにし、神であることを表すことである。この働きができるのは神のみであり、生身の人が達成できることではない。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より)

これはまさしくその通りです。いかなる人にも全能神の働きを成し遂げたり、御言葉を語ったりすることはできません。神だけがこのような全能性と知恵を有しておられ、神だけが神であるものを有しておられ、これもまた誰にも否定できないことです。

しるしや不思議を行なうことは、神にとって非常に容易いことです。しかし、神がその働きにおいて奇跡を行うか否か、病人を癒して悪霊を追い払うか否かは、神の働きにおいて何が必要とされるかということに基づき、堕落した人類の必要に基づいているのです。無意味な働きは行われません。神が最初に肉となってこの世で働かれた恵みの時代には、神は盲人の視力を戻す、麻痺している者を歩けるようにする、らい病人を治す、死者を蘇らせる、波風を鎮める、五つのパンとニ匹の魚で五千人を養うといった数々の奇跡を見せられました。しかし、神がこれらのことをなさったのは、人々が神の行動、神の大いなる力を見て、そこから神を信じ、神に付き従い、神の十字架による救いを受け入れることができるようにするためです。

神の最初の受肉には歴史的前例がなかったため、神が人々をご自身の前に引き寄せることができたのは、彼らに物質的な恩恵を与え、恵みを授け、病気を癒し、悪霊を追い払い、しるしと不思議を何度か起こすことによってのみだったのです。もしそうしなかったならば、そんなごく普通の肉体が実は神の霊の具現であると人々は信じることはなかったでしょう。十字架に釘付けにされた全くの凡人がまさか神ご自身だったことは特に信じられなかったでしょう。それゆえに、人々が神を信じ、神に付き従い、そうすることで神の十字架の救いを得るようにするために、神は奇跡や病人の癒し、悪霊の追い払いを行い、人々に豊かな祝福を授けられたのです。それではなぜ神は終わりの日の働きにおいてはしるしや不思議を行われないのでしょうか。

それは、終わりの日の受肉された神の働きが言葉の働きだからです。その働きとは、神によって贖われたのに罪を犯し続け、汚れて堕落したままである人類を言葉によって清めるものです。これは、神が人類を徹底的に清め、変化させ、完全にするという段階の働きです。もしこの働きが奇跡や病人の癒しや悪霊の追い払いがあった恵みの時代の働きと同じであれば、それは人類を言葉によって征服し、完全にし、清め、変化させることにはならないでしょう。

神の働きにおけるこの目的は、実際的で正常な働きによって果たされなければいけません。受肉された神は実際的に語られます。ご自身の本来の性質、神がもってものと神であるものを全て人に明かされ、同時に人類の堕落と反抗心を暴き、人類の不義と抵抗を裁き、人々が性質の変化を実現し清められる道を示されます。こうして神が表される真理と神の実際的で正常な働きを通して、人々は神を知り、従い、愛することができるようになります。また、人々が御言葉によって清められ、完全にされることも可能になります。これらの成果は全て、奇跡を見せたり人類に恵みと恩恵を授けたりすることによってではなく、御言葉の裁きによって実現されるのです。

この働きの段階で、もし神が人々を清めて救うために実際的に語るということと、人々に奇跡を見せて豊かな恵みを授けるということを両方なされば、人々は皆奇跡ゆえに御前にひれ伏し、神が授けられる恵みとご利益のために神に付き従うでしょう。これでは人々は神の性質の全て、神がもってものと神であるもの、神の働きにおける神の知恵を理解することができないでしょう。

それでは人々が本当に信じているか否か、本当に神を恐れて従っているのか否かも分からず、人々の堕落や反抗、神を信じる動機やそこにある不純さも明らかになりません。ましてや人々が自分自身を知ることも、清めと変化を果たすために真理を求めることもできないでしょう。これでは、言葉を通して人類を清め、変化させるという神の働きが妨害されてしまいます。そのため神が御言葉を通して人類を救われるあいだには、奇跡をお見せにならないのです。神の肉における働きが完了したとき、すなわち、神の追随者からなるこの集団が神によって完全にされた暁には、人類に大いなる奇跡を見せてくださるでしょう。

なぜなら、神はその時には、悪を罰し、善を報いるという働きをなさるからです。御言葉で人を救うという働きを行いながら奇跡を起こされれば、神の実際的な働きが無秩序と混乱に陥ってしまい、人を救うという成果は実現されず、ましてやあらゆる種類の人々の姿を暴露し、最終的には各種類に応じて区別するという目標も達成されません。従って、神が奇跡を起こされないのは、完全にご自身の働きの要求によるものであり、神の御言葉を結実させるという働きを成し遂げるためです。全能神は仰せられました。

「神の國の時代、神は言葉を用いて新たな時代を招き入れ、働きの手段を変え、その時代全體の働きを行う。これが神が言葉の時代に働く原則である。神は異なる観點から語るために受肉し、肉となった言葉である神、その知恵と不思議とを人間が本當に見ることができるようにした。そうした働きは、人間を征服し、人間を完全にし、人間を淘汰するという目的をよりよく成し遂げるために行われる。これが、言葉の時代に言葉を用いて働くということの真の意味である。言葉によって、人間は神の働き、神の性質、人間の本質、人間が何において成長すべきかを知るようになり、言葉によって、言葉の時代に神が成し遂げようと望む働きがすべて成し遂げられる。言葉によって人間は露わにされ、淘汰され、試される。人間は言葉を見、言葉を聞き、言葉の存在を知った。その結果、人間は神の存在を信じる。人間は神の全能性と知恵、また、神の人間を愛する心と人間を救おうという願いとを信じる。「言葉」という語は単純でありふれたものだが、肉となった神の口から出る言葉は、全宇宙を揺るがす。神の言葉は人間の心、その観念や古い性質、全世界の古い姿を変える。はるか昔から、現在の神だけがそうした働きを行っている。そして、現在の神だけがそのようにして語り、人を救う。それより後、人間は言葉に導かれて生き、言葉により養われ、施される。人間は言葉の世界に生き、神の言葉の呪いと祝福の內に生き、それ以上に言葉の裁きと刑罰との下に生きる。これらの言葉と、この働きはみな、人間が救われ、神の心を達成し、古い創造の世界における元々の姿を変えるためのものである。……神の國の時代を通じて神は言葉を用いて働き、仕事を成し遂げる。神は不思議を行ったり奇跡を起こしたりはしない。神はただ言葉によって業を行う。言葉のおかげで人間は養われ、施される。言葉により、人間は認識と真の経験を得る。言葉の時代の人間は、まことに格別の祝福を受けている。人間は肉の痛みに苦しむことなく神の言葉を豊かに享受している。探し求めたり、旅したりする必要はない。ゆったりと神の現れるのを見、神が自分に語りかけるのを聞き、神の與えるものを受け、神が直接その働きを行うさまを見る。人間は過去の時代、そうしたことを享受できなかった。そのような祝福は、けっして受けることができなかったのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「神の國の時代は言葉の時代」より)「終わりの日の神は、人を完全にするのに、主として言葉を用いる。神は、人に圧力をかけたり人を確信させたりするのに、しるしや不思議を用いない。それは、神の力を明らかにしない。もし神がしるしや不思議を示すだけならば、神の実在性を明らかにすることは不可能だろう。したがって、人を完全にすることも不可能だろう。神は、しるしや不思議によって人を完全にせず、人を潤し牧養するのに言葉を用いる。そしてその後で人は、完全な従順と神についての認識を達成することができる。これが、神が行う働きと神が話す言葉の目的である。……終わりの日に神が時代を終え、人が完全にされるそのとき、人は、しるしや不思議を見るにふさわしい存在になるだろう。……神がしるしや不思議を示す時は、神が人を罰するときであり、時代が変わるときでもある。さらに、時代が完結するときでもある。神の働きが順當に遂行されているとき、神はしるしや不思議を示さない。しるしや不思議を示すことは極めて容易であるが、それは神の働きの本質ではないし、神による人の経営(救い)の目的でもない。もし、人がしるしや不思議を見たら、そしてもし、神の霊の体が人の前に現れるようなことがあったら、神を信じない人はいるだろうか。……終わりの日の神の働きは、実際的な働きである。イエスの時代に、イエスは、人を完全にするためではなく、人を贖うためにやって來た。したがって、イエスは人々を自身に従わせるためにいくつかの奇跡を見せた。なぜなら、イエスは主に、磔という働きを完了するためにやってきたのであり、しるしを示すことは彼の使命の働きの一部ではなかった。そのようなしるしや不思議は、イエスの働きを効果的にするために行われた働きであった。それらは追加的な働きであり、その時代全体の働きを表すものではなかった。旧約聖書の律法の時代においては、神はいくつかのしるしや不思議を示しもした。しかし、神が今日行う働きは、実際の働きであり、神は今や、決してしるしや不思議を示さない。神がしるしや不思議を示すやいなや、神の実際の働きは掻き亂され、神はもはや働きを行うことができなくなるだろう。もし神が、言葉は人を完全にするために用いられると言って、それでいて、しるしや不思議も示したとしたら、人が神を真に信じるかどうかが明らかにされることが可能だろうか。したがって、神はそのようなことは行わない。」(『言葉は肉において現れる』の「すべてが神の言葉によって達成される」より)

もちろん、神が奇跡を起こしたり、病人を癒したり、終わりの日に悪霊を追い払ったりされないことには、他にも実際的意義のある側面があります。全能神の御言葉をもう二節読みましょう。

「人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならないのだが、神は今回決してそのようなことはしない。もし終わりの日に神がしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり癒やしたりしていたら──それならば、神はイエスの働きと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。……なぜ今日、神の働きはイエスの働きと異なっているのか。なぜ今日の神はしるしや奇跡を示さず、悪霊を追い払わず、癒やしもしないのか。もしイエスの働きが律法の時代に行われた働きと同じであれば、恵みの時代の神を現すことができただろうか。イエスは磔刑の働きを完了できたろうか。もし律法の時代のようにイエスが神殿に入り、安息日を守ったなら、誰からも迫害を受けず、みなに受け入れられたろう。それならば、磔刑に処せられただろうか。贖いの働きを完了できたろうか。終わりの日に受肉した神がイエスのようにしるしや不思議を見せたなら、何の意味があろう。終わりの日に神が働きの別の部分、経営(救いの)計画の別の部分の働きをしてはじめて、人間は神についてより深い認識を得るのであり、そうしてはじめて、神の経営(救いの)計画は完了する。」(『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知るということ」より)「世の終わりに受肉した神の語る言葉は、人間の性質、人間の行動、人間が今日必要な成長に沿った事がらである。神の話す方法[a]は真実で正常のものである。神は明日のことは話さない。また、昨日を振り返ることもない。今日成長し、実践し、理解するべき点についてだけ話す。この時代に、しるしや不思議を起こせる人が現れ、悪霊を追い払い、癒やし、多くの奇跡を起こし、またその人がイエスの再来であると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。……神は、時代ごとにひとつの段階の働きをするのだ。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを悪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろからついていく。神は方法を変更する。一度神がその段階の働きを完了すると、悪霊がまねをする。こうしたことを理解しておきなさい。」(『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知るということ」より)

全能神の御言葉から、神が終わりの日に奇跡を行わず、病人を癒さず、悪霊を追い払われない理由は、常に新しい神だからであることが分かります。同じ働きを二度されることはないのです。神の働きの原則は、既に成し遂げられたことを決して繰り返さないことです。これが神の大いなる力であり、これが神であるものです。神は奇跡を行い、病人を癒し、悪霊を追い払うという働きを既に恵みの時代に行われました。もし終わりの日にそれらをもう一度行えば、それは同じ働きを二度することになり、無意味になるでしょう。

その上、人々は神を病人を癒し、悪霊を追い払う奇跡の神と定義するでしょうし、それでは神に対する認識は一面的で不正確なものになってしまいます。神は全能で全知の神であり、その知恵は誰にも計れません。神が人間的な観念の枠内で限定されるなど、どうして神ご自身が許されるでしょうか。終わりの日の働きのこの段階では、神は奇跡を起こさず、全く新しい高次の働きを行われます。御言葉を通して働かれるのです。御言葉で全てを成し遂げられます。こうして人々は、神がもってものと神であるものはもちろん、神のすばらしい知恵を御言葉によって知り、御言葉の力と権威を知ることができ、それによって神についての認識を深め、神をそれ以上限定しなくなります。

神が奇跡を行われない理由のもう一つの側面は、そうされないことで人々が神の働きと悪霊たちの模倣を区別でき、神の知恵がサタンの計略に基づいて働くことを理解できるからです。神が働きの一段階を完了される度に、悪霊はそれを真似して演じます。主イエスがご自身の働きを完了されてから、大勢の悪霊が主に付いて行って離れず、主の真似をして奇跡を行い、病人を癒し、悪魔を追い払っていました。このため人々は神の姿をサタンの姿と混同してしまいました。多くの人は、しるしや不思議を行い病人を癒し悪霊を追い払うことができる者なら誰でも神とみなし、付き従って崇拝します。

そのため、神は終わりの日にしるしや不思議を行われないのです。ただ真理を語って示し、ご自身の性質、神がもってものと神であるものを表し、人々の堕落と反抗心を暴露されるのであり、御言葉を発することで人々にいのちの糧を与えられます。このようにして、人を征服し、人を清め、人を変え、人を完全にするという目的が達成されるのです。神のこのような働き方は、サタンと悪霊には真似できないものです。なぜなら、サタンと悪霊は真理を有せず、神の本質を持っていませんし、神の御言葉を表すことは決してできないからです。神のこの働きのおかげで、人々は何が神の働きで何が悪霊の模倣であるかを区別できるだけでなく、特に神の知恵と全能を認識し、サタンの卑劣さと邪悪さをはっきり見極めることができます。神の働きは実に意義深いのです。

総括しますと、「神は人々に大きな奇跡を見せるべきだ。神は病人を癒し、悪霊を追い払い、人々に祝福を与えなくてはいけない。もし奇跡を見せず、人類に何のご利益ももたらさないなら、本当の神ではない。あなたが信じているこの全能神が本当の神なら、なぜあなたは今でも病気になるのか。なぜあなたの家庭は平和ではないのか。イエスの信仰者である私たちは、病気があれば治り、病気でなければ家庭に平和がある」と誰かが言うならば、それは明らかにばかげた発言ですし、全く神を理解していないことを示しています。

奇跡を行う、病人を癒す、悪霊を追い払う、人々に恩恵をもたらすといったことをしなければ神ではないのでしょうか。もし神が人々を清め変化させるために、人々に恵みと恩恵をもたらすことや奇跡を見せることを一時的にやめられたのなら、それは神ではないのでしょうか。もし神が人々を試み、精錬し、病気や逆境が降りかかるのを許されるなら、それだけで神を否定するでしょうか。ヨブに降りかかった逆境や試練が、私たちが現在直面しているものより遥かにひどいことを知らないのですか。それでもヨブは神の御名を否定せず、最高の認識を示すことを言いました。「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」 (ヨブ 2:10)。「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」 (ヨブ 1:21)。

ヨブと比べて、私たちは恥じを知るべきではないでしょうか。実際のところ、全能神の御言葉の裁きと刑罰を受け入れ、あらゆる試練と精錬を受けることができるのは、終わりの日に生きる者たちにとって最大の祝福です。これらは全て神がご自身の民を完全にするために入念に采配されたものであり、人々が清められ救いを得るために通らなければならない道を形成します。それはゼカリヤ書十三章八節から九節で預言されています。「全地の人の三分の二は断たれて死に、三分の一は生き残る。わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『彼らはわが民である』と言い、彼らは『主はわが神である』と言う」。

そして現在、「わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する」という預言通り、この言葉は終わりの日の全能神の追随者からなるこの集団において成就しています。この集団が完全にされる時とは、神が大いなる奇跡を見せ、大いなる栄光を得られる日です。その時、神に抵抗し神を認めない三分の二の人間は神に摘み取られます。神の御言葉を受け入れ、清められた三分の一の人間を神は彼らのために用意された美しい終着地に連れて行き、神の約束と永遠の祝福を享受できるようにしてくださいます。これは神が必ず完成なさるはずの事実であり、いずれ完成します。それでは兄弟姉妹の皆さん、あなたたちがなりたいのは三分の二の一人ですか、それとも三分の一の一人ですか。もし神によって清められ、救われて生き残り、神の民の一員になりたいのなら、一刻も早く自分の観念を放棄して全能神の御言葉の裁きを受け入れなくてはいけません。

「病気の者は癒され、病気でなければ家庭に平和がある」という恵みの時代がもう終わったので、神はそのような働きをとうの昔にやめられたのです。私たちはもはや現実から目をそらして自分を欺くことはできません。実際のところ、終わりの日に、神は人に永遠のいのちの道を授けられます。それは恵みを授けられるよりも遥かに価値があることです。もしやあなたたちは病気を治してもらい、少々の肉体的な恩恵を得ることだけを求めていて、神から永遠のいのちの道を得ようとは思わないのでしょうか。

脚注

a. 原文では「それ」とある。

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