【邪説】「あなたたちは神が肉となり、全能神と呼ばれていると説いていますが、神を見たことはあるのですか。見たことがないのなら、何を根拠に神が戻って来たと言うのですか」とある人が言いました。

回答 私たちは主イエスが受肉された全能神として再臨された、全能神は御言葉を用いて人を裁き清める働きの段階を行うために来られたのだと説いています。これは根拠のない主張ではありませんし、受肉された神の姿を見ることだけが、それが神ご自身であることを確認する方法ではありません。聖書には、「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ローマ10:17)とあります。

私たちは自分の目で神の言葉を見て、自分の耳で神の御言葉を聞くので、全能神の御言葉と御発言から全能神が肉において再臨された主イエスであることを認識することができますし、これで十分なのです。おそらく、主イエスを信じる兄弟姉妹で肉の姿の主を見て初めて信じるようになった人はいないでしょう。人々が主イエスを信じるのは、すべて聖書に記録されている主イエスの働きと御言葉のためではないでしょうか。主イエスに付き従う過程で、主の恵みを得て、主の慈愛とあわれみを体験し、主のすばらしい業を見て、それから初めて主イエスが真の神であると確信し断固として主に従い始めたので主を信じているのではないでしょうか。実のところ、神を信じる者として、私たちが肉となられた神を見たことがあるかどうかは重要ではありませんし、それは私たちが真の道を模索し探求することにも影響しません。神が肉となられるのは、ご自身の働きを成し遂げ、人々が神の救いを得られるようにするためであって、ご自身の肉の姿を人類に明かすためではありません。神の最初の受肉の目的は、十字架につけられることによってすべての人類を贖うというご自身の働きを成し遂げることでした。この働きが終わると、神は地上を去られました。神が受肉されたのは、人々が皆その肉体がどのような姿か見ることができるようにするためではありませんでした。主イエスが地上で働かれたのはわずか三年半の間であり、主の働きの範囲もかなり狭く、ユダヤとガリラヤだけに限定されていました。限られたごく一部の人々にしかお姿を表さず、この限られた少数の人々の中で肉の姿をして働きを始められました。ご自身の肉の姿を全ての人に公に明かしたりはしませんでした。後に主の福音が世界中に広まったのは、主がどのような姿だったかを説くことではなく、主イエスの言葉と十字架による救いを説くことによってでした。明らかに、主の肉に姿について言えることはあまりありませんでした。もし言えることがたくさんあって、そのおかげで人々が神を知り、その救いを得られたのなら、なぜ主イエスは誰もが主の肉の姿を見ることができるように、世界中を周られなかったのでしょうか。なぜ主はあのような限られた範囲内でのみ働き、ごく少人数の人々にのみ姿を表わされたのでしょうか。神が地上に来られたのはご自身の肉の姿を人類に明かすためではなかったのは明白です。なぜなら、そうしても実際に何の意義もなく、神を知る上で役に立たなかったからです。全能神は仰せられます。「神は人に神の肉体を知らしめたり、人に受肉した神の肉体と人の肉体の違いを区別させたりする目的で受肉するのではない。神は人の識別能力を鍛えるために受肉するのでもない。ましてや受肉した神を人が礼拝し、そこから神が偉大な栄光を受ける意図を持って受肉するのでもない。これらのどれも神が肉となる本来の意図ではない。……神はその働きに必要なときだけ地上に来るのであり、必ず必要なときである。神はさまようことを意図に地上に来るのではなく、神がすべき働きを実行するために来る。そうでなければどうして神がこの働きを行なうというそのような重荷を背負い、大きな危険を冒すのだろうか。神はそうしなければならない時にだけ、また常に特別な意義をもって肉となる。もしそれが人に神を見させ、彼らの視野を広げるためだけであったなら、神は絶対にそのように軽々しく人の間には来ないであろう。神が地上に来るのは、その経営と偉大な働きのためであり、神がもっと人を得るためである。神は時代を代表し、サタンを打ち負かすために来るのであり、サタンを敗北させるために肉となる。さらに、神は全人類の生活を導くために来る。これらのことはすべて神の経営に関係することで、全宇宙の働きに関することである。もし神が人に神の肉体を知らしめ、目を開かせるためだけに受肉したのなら、なぜ神はすべての国々を旅しないのであろうか。そんなことはいともたやすいことではないであろうか。しかし神はそうしなかった。その代り、住みつき神のすべき働きを開始するのに適した場所を選んだ。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(3)」より)神が受肉されるのは、さらに大きな働きを行い、サタンに勝ち、全人類の地上での生活を導くためであることが分かります。誰にでも神の肉の姿が見えるように受肉されるのではありません。受肉された神が人々に残されるのは神の働きと言葉であり、神が人々に知らしめるのも神の働きと言葉です。神はこれらを通して、人々が神の性質と神であるものを知り神の心と要求を理解し、それゆえに神の救いを得ることができるようにされるのです。神が終わりの日に受肉して働かれるのは、「言葉は肉において現われる」の働きを成し遂げるためであり、主に贖われたにも拘らず清めを達成しなかった人々を征服して救い、これらの人々が真理を得て、神の言葉の裁きと刑罰において清められるようにするためです。主の肉の姿を見たか否かは、主の救いを得られるか否かを決定するものではありません。かつて、主イエスの肉の姿を見たユダヤ人やパリサイ人はたくさんいましたが、彼らは主を信じるどころか、非難し、冒涜さえしました。そのため神に呪われ罰せられました。ユダヤとガリラヤ以外の異邦人の中には、主イエスの肉の姿を見たことがない者もいましたが、人が主イエスの働きについて説くのを聞いて主を信じて付き従ったので、主の救いを得たのです。終わりの日に生まれた私たちが皆主イエスを信じて従うのも、聖書に記録されている主イエスの働きについて人が説いている事柄のためではないでしょうか。主イエスの肉の姿を見たという理由だけで主を信じる人がいるでしょうか。いるはずがありません。私たちは主イエスの肉の姿を見なくても、主の働きと御言葉によってのみ主に立ち帰ったのです。ではなぜ先ず神の肉の姿を調べることなしに神が終わりの日に肉となられた事実を信じてはいけないのでしょうか。あなたが待ち望んでいるのは、主イエスの受肉がもたらした、あなたを救うことができる働きと真理ではなく、単に自分の目を楽しませるために主イエスの肉となられた姿を見ることなのですか。もしそうであれば、あなたは決して神を見ることはないでしょう。なぜなら神が姿を表わされるのは、真理を渇望し求める人々と神の働きと言葉を知りたいと思う人々だけであり、自分の好奇心を満たすためだけに神の肉の姿を見たがる人々でも、更に言えば、心が疑いに満ちているがゆえ故意に神を試す人々でもないのです。

実のところ、私たちも神が肉となって再臨されたと人が説くのを最初に聞いたとき、そのような間違った考えをもち、「あなたたちは神が肉となったと説いているが、神を見たことはあるのですか、見たことがないなら、何を根拠に神が戻って来たと言うのですか」とその人たちに尋ねました。そうして、私たちの愚かさと無知、貧しさと情けなさが露呈されました。説教者たちの交わりを聞き、全能神の御言葉を読むことによって、私たちは神の受肉の奥義と意義についての認識を徐々に得て、私たちの固定観念は徐々に解消されました。真理のこの側面に関して、全能神の御言葉を読んでみましょう。全能神は仰せられます。「神は肉の働きを全うするためだけに肉となるのであり、単に人間が神を見ることができるように肉となるのではない。むしろ、彼は働きを通して彼の身分を明確にし、彼の現すものによって彼の本質を証明する。彼の本質は根拠のないものではない。彼の身分は自身の手によって握られてはいなかった。それは彼の働きと本質によって決定される。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の心への従順」より) 「人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。外見は本質を決定しない。その上、神の働きが人の観念と一致したことはこれまでにない。イエスの外見は人の観念とはまったく違っていたではないか。イエスの外見と衣服はイエスの真の正体に関し何らの手がかりも与えることができなかったのではないだろうか。古代のパリサイ人がイエスに反対したのは、彼らがイエスの外見を見ただけで、イエスの語る言葉を真剣に受け止めなかったからではないだろうか。神の出現を求める兄弟姉妹には歴史の悲劇を繰り返さないで欲しい。あなたがたは、現代のパリサイ人になって神を再び十字架につけるようなことをしてはならない。あなたがたは神の再来をどのように歓迎するか慎重に考え、真理に服従する人になるにはどうしたらよいか、はっきりした考えを持つべきである。これが、イエスが雲に乗って再臨するのを待っているすべての人の責任である。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)「神が地上に来ること、それは言葉が肉となるということである。神はただ人が神の言葉を理解し、言葉を知ること、すなわち、肉においてなされる働きを人が見ることを可能にしているだけである。神が意図していることは人々が神の肉体を何らかの方法で取り扱うことではなく、人が最後まで忠実であること、すなわち、神の口から出る全ての言葉に従い、神が行うすべての働きに服従することだけである。神は肉体においてただ働いているだけで、神の肉体が偉大で聖であることを人が褒めたたえるよう意図的に求めているのではない。神は単に人に神の働きの知恵と神の及ぼす権威を示しているにすぎない。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(2)」より)「神が肉となるのは、ただ霊が働きを行なうときに住まいとする適切な場所を得られるようにであり、神がその働きを肉において完了するため、そして人々がその働きを見、神の性質と接触をもち、神の言葉を聞き、神の働きの不思議を知るためである。……受肉した神の外見は神の経営とは無関係であり、それはただそのときの神の働きのためなのである。しかし、受肉した神が特定の外見をもたないということは不可能なので、神はその外見を決定するために相応しい家族を選ぶ。もしも神の外見に具象的な意義があるのならば、神と同じような顔立ちをしている人々もすべて神を表していることになる。これはあまりにひどい間違いではないであろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より)

後に、全能神の御言葉と御働きを経験することによって、私たちは全能神が真の神であり、既に肉となって地上に来られ、私たちのもとで生活されていることを一層確信するようになりました。神の肉の姿は全ての人には明らかにされていませんが、その御働きと御言葉は、真理を渇望し求める全ての人に開かれています。全能神の御言葉を読み、全能神の裁きと刑罰の実際の御働きを経験することを通して、私たちはこれまで理解しなかった多くの真理を理解し、堕落を捨てて清められる道を見い出し、この経験なしでは気づきようがなかったであろう堕落した性質や神に背く本性と本質を自覚するのです。同時に、不可侵である神の威厳ある義の性質を知るようになり、神が私たちのサタン的な堕落した性質を忌み嫌われながらも、私たちがすぐに変化し神の救いを得るのを望まれていることを理解します。神の愛に心から感謝し、私たち自身の反抗と堕落を憎み、全力で真理を求め、徐々に罪の束縛の暗い領域を離れ、私たちの堕落した性質がますます変わることはすべて、終わりの日のキリストである全能神の御働きによって実現される成果です。親愛なる兄弟姉妹の皆さん、あなたたちが自分の観念を捨て、全能神の御働きと御言葉を素直に求めることができれば、あなたたちにも神の出現を見て終わりの日の神の救いを得るという幸運があるだろうと私たちは信じます。

脚注:

a. 原文では「~かどうかに関しては」と書かれている。

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