8. 正直な人と不正直な人の違いは何か。

2017-11-24 17

神の言葉

わたしは他人に対して疑いを持っていない人を高く評価し、真理を容易に受け入れる人を好んでいる。わたしはこれらの2つの種類の人間を大切にする。わたしの目には誠実な者たちだからだ。あなたが非常に偽りに満ちているならば、あなたはすべての事柄およびすべての人に関して疑いを持つ、器の小さい心と思考を持っているであろう。このため、あなたのわたしに対する信仰は疑念の基礎に基づいている。わたしはそのような信仰は決して認めていない。本当の信仰がなければ、あなたは本当の愛からはほど遠い。そして意のままに神を疑い、推測するようであれば、間違いなくあなたは最も偽りに満ちた人である。

『言葉は肉において現れる』の「どのように地上の神を知るか」より

神の前ではきちんと振る舞い、とりわけ「礼儀正しい」けれど、霊の前では反抗的で放埒な行いをする者もいる。そのような人をあなたがたなら正直な者の数に入れるだろうか。もしあなたが偽善者で「社交」上手であるなら、あなたは神を軽んじていると断言しよう。もしあなたの言葉が言い訳と無価値な正当化だらけだとしたら、あなたには、真理を行おうという気持ちがないのだ。もしあなたが他人に言うことのできない秘密を多数抱え込んでいながら、光明を求めて自分の秘密──自分の中にあるやっかいな部分──を他人に打ち明けないでいるとしたら、あなたが救いを受けることは難しく、闇から抜け出すことも容易ではない。もしあなたが真理の道を求めることに喜びを感じるのなら、あなたはしばしば光の中に生きている。神の家で奉仕する者であることを喜ぶ人で、人に知られなくとも勤勉に、良心的な仕事をし、決して何かを得ようとせず、常に与える者であるのなら、その人は忠実な聖徒だと言おう。報いを求めず、ただ正直であるのだから。率直であろうとし、すべてを与える覚悟があり、神のために命を犠牲にして証しすることができるのなら、神を満足させることだけを考え、自分のことは考えず、自分のためには何も求めないほど正直なら、そのような人は光に養われ、神の国で永遠に生きる人である、とわたしは言おう。真の信仰と真の忠実さとが内にあるかどうか、神のために苦難を受けたことがあるかどうか、神に心から従っているかどうか、自分の心に尋ねればわかるだろう。もし、そうしたものが欠けているのなら、あなたの心の内には、不服従、欺き、貪り、不満が残っている。心が正直でないから、神に認められたこともなく、光の中で生きたこともない。人間の運命が最後にどうなるかは、正直で赤い血の通った心があるか、清い魂があるかどうかにかかっている。極めて不正直で、悪意に満ち、汚れた魂をもっているなら、運命の記録は人が罰せられる場所に確実におかれている。

『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より

不正直な者は、その者の親戚や子どもも含めて、あらゆる者に対して自分の手口を仕掛ける。あなたがたがその者に対して如何に正直であったとしても、その者はあなたがたに罠を仕掛けるであろう。それがその者の本性の真の姿であり、その者は、それを本性とする。変化することは困難であり、その者は常にそのような行動を取る。たとえば、正直な人々は、時々悪賢い事や不正直な事を述べるが、そうした者は普段は正直であり、自分と係わる他人を不当に利用することなく、正直に行動する。その者が他人と話す時は、意図的に他人を試すような事は言わず、依然として極めて正直であり、自分の心を開いて他人と交流する。他の者は皆その者が正直であると言うが、それでも時折不正直な事を言う事がある。これは単なる腐敗した性情の表出であり、その者の本性を示すものではない。なぜなら、その者はそうした性格の者ではないからである。

『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より

人の交流

誠実な人々は真理を愛するがゆえに、真理を追い求めます。誠実でない人々は真理を愛していません。彼らは道理を好み、人に物事を説明するのを好み、また見せびらかすことを好むので、教えを説いたり語ったりすることに大いに気を遣います。誠実でない人々は自分の外見を気にします。それはまさに、ただそうしているところを他人に見られるためだけに神に祈ったファリサイ人と同じです。周囲の人々に自分の姿を見られるように、彼らは辻々で祈りました。彼らはうわべこそ信心深く見えましたが、実際にはまったくの嘘つきであり、詐欺師だったのです。誠実な人々は真理を愛します。彼らは神の御許においては真理を追い求め、神の御心を理解し、神を満足させようと望むこと以外には何も考えていません。これら以外には何の欲求も抱いていないのです。彼らはあらゆる種類の悪巧みを心に抱くことがなく、自己中心的で卑劣な考えも一切持っていません。彼らは純真な心の持ち主なのです。何事においても、ただ一つのことだけを考えています。「私はどうしたら神様を満足させられるだろうか。神様の真の御心とは何だろうか」。もしわからなければ、それを探り当てるまで絶えず祈り、絶えず考えます。このような人々が誠実な人です。誠実な人々は神の御前で祈るとき、真理を探し求めること以外に何も求めません。彼らは祈りの中で真理を探し求めなかったり、神の御心を理解できなかったりすれば、自分には言うべきことは何もないと感じます。なぜなら、これら以外の何かのために祈るのは無意味で空虚だと感じているからです。彼らは偽りを口にするのを好みません。誠実でない人々は違います。彼らはいつも神の御前で目立とうとし、自分独自の推論を語り、自分の能力を見せつけ、自分の手柄を見せびらかしているのです。実際、彼らが行なうことはすべて他人に見てもらうためであり、それで他人が自分を承認し、賛美し、自分達の言うことに耳を傾けるようにするためです。真理を追い求めず、神の御心を探し求めて理解しようと努めず、真理を渇望しない人々は誠実でない人であり、偽善者なのです……

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