質問3.よく牧師や長老がこう言います。「すべてが終わった」と主イエスが言ったのは、人類救済の働きが終わったという意味で、主イエスを信じ、主の前で罪を告白すれば、赦してもらえ、罪人としてみなされない。信仰さえしていれば恵みによって救われる。主が再臨する時、天国に入れてくれるので、人類を救うためにいらっしゃることはないと。でもこれは牧師たちが間違っているように思えます。ただ…主の「すべてが終わった」という言葉がどういう意味か分かりません。なぜ神が再び戻って真理を表し、裁きをする必要があるのか。

2019-04-02 0

解答: 「すべてが終わった」と主が言われたのはどういう意味でしょうか?贖いの働きが終わったのか?それとも人類を救う働きが終わったのか?当時の人に理解できたでしょうか?誰にも理解できなかったでしょう。主イエスは「すべてが終わった」と言っただけで、人類救済の働きが終わったとは言ってません。一体どういう意味で主が「すべてが終わった」と言ったか人間には分かりません。ですから主の言葉や「すべてが終わった」の意味を自分勝手に解釈し説明してはいけません。主の言葉に人間の考えをやみくもに加えることになります。考えてみてください。人類救済の働きについて「すべてが終わった」と主イエスが言ったのだとしたら、主はなぜこう預言したのでしょう?「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)ヨハネによる福音書12章47、48節ではこう言っています。「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」主イエスは再臨し、真理を表し、裁きの働きを明言しています。他の預言にもあります。「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)牧師や長老が言うように主イエスが磔にされたことで人類救済が終わったのなら、主イエスの預言「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」これはどう成就するのですか?真理を示し裁きの働きをするために主が戻るという預言は成就しないのでは?ですから、牧師たちの言うことは主イエスの言葉や神の働きに明らかにそぐわないのです。皆さんいいですか?主イエスがされたのは贖いの働きだけです。主イエスを受け入れて罪を告白すれば、赦してもらえます。そして主にお祈りができて恵みを受けられるのです。たとえ罪を犯しても、律法に裁かれません。これこそ主イエスの贖いの働きの成果です。そして本当の意味での「信仰による救い」です。主イエスの働きが果たしたことを考えると、主イエスは贖いの働きをしただけだと分かります。終わりの日に人を裁き清め完全にする働きではありません。主を信仰すれば罪は赦されますが、大きな罪を犯さず良き振る舞いをしても、罪と無縁ではなく、純粋な魂になっていませんね?頻繁に嘘をつき罪を犯していませんか?欲に駆られて行動していませんか?人をねたみ嫌っていませんか?傲慢で卑劣な心を持っていませんか?世俗的な流行を追い、富を求め、名声を得ようとしていませんか?中国共産党政府に逮捕されると、神を裏切り、神を否定する念書を書く人さえ存在します。特に終わりの日の全能神の真理と裁きの働きについては、思い込みと想像だけで神の働きを判断し非難していませんか?つまり、信仰では罪を赦されるだけで、私たちの持つサタンの本性と性質は変わらないのです。そのせいで罪を犯し神に逆らうのです。この罪深い本性が消えなければ、神に逆らい、神を敵だと考えてしまいます。そのような人間は天国に入る資格がないのでは?皆さん、主イエスの「すべてが終わった」は、神の贖いの働きが終わったということを意味してるに過ぎず。人類救済の働きが終わったという意味ではありません。終わりの日に受肉された全能神は真理を示し、裁きの働きをしに来ました。人々を完全に清め救い、罪を犯す根源を取り除き、罪から解放され清められた人々を神の国に招くのです。全能神の言葉を読んでもっと理解を深めましょう。

 全能神は言われます。「あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望むとは──あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている──あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。」(『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より)

 「あなたはわたしがどのような人間を求めているかを知らなければならない。不純な人間は神の国に入ることを許されないし、また不純な人間が聖地を汚すことも許されない。あなたがたとえどれほど長くまたどれほど多くの働きを行ってきたとしても、最後のときになって未だ甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることは天の律法が許さないのである。世の初めから今日まで、人がいかに取り入ろうとも、人がわたしの国に入るのにわたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない。」(『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より)

 「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

 「人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)

 「終わりの日の働きとは、時が近づき神の日が来たので、神の経営(救いの)計画を完成させるべく、その者の性質に応じて全ての人を分けることである。神はその国に入った者、すなわち神に最後まで忠実であった全ての者たちを神自身の時代に連れて来る。しかし、神自身の時代が来る前に、神がしたい働きとは、人の行為を観察したり、人の生活について尋ねたりすることではなく、人の神に対する背きを裁くことである。なぜなら、神は自分の玉座の前に来る者全てを清めるからである。今日まで神に付き従ってきた全ての者は、神の玉座の前に来た者であるから、神の最後の働きを受け入れる全ての者が、神によって清められる者である。すなわち、神の最後の働きを受け入れる全ての者が、神の裁きを受けることになる者である。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」)

 「終わりの日はすでに来ている。あらゆるものは種類によって区分され、性質に従って種類分けされる。この時に神は人の最後と終着点を明かにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、人の不従順と不義を明かす方法はないであろう。刑罰と裁きを通してのみ、あらゆるものの終局を明かすことができる。人は罰せられ裁かれて初めて本当の姿を示す。悪は悪に、善は善に、人は種類によって区分される。刑罰と裁きを通して、すべてのものの最後が明かされ、悪人は罰せられ、善人は褒美を得るであろう。そして、すべての人たちは神の支配の下に従属することになるであろう。すべての働きは義なる刑罰と裁きを通して達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順はあまりにも深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きであり、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質のみが人を完全に変えて全き者とすることができる。この性質のみが悪を暴露し、よってすべての不義なる人々を厳しく罰することができる。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」)

 「刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。神の働きが終わる時、生き残ることのできる人は、清められ、人類のより高い領域の中に入って、地上でのよりすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、悪者、義なる人ではないからである。……悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。」(『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」)

 終わりの日の神の裁きで得られる結果を全能神は明らかにしています。終わりの日における神の裁きの働きは人類を清め救うためなのです。主イエスの贖いの働きが終わりの日の神の裁きへの道を開き、全能神が主イエスの贖いの働きをもとに裁きと清めをなされ。人類を罪から救い、神の御国へ招くのです。神の働きは実践的でしょう?主イエスの贖いだけ受け入れて終わりの日の神の裁きを受け入れなければ、神の御国へ入る資格はありませんね?このように神の働きを理解することがとても重要なのです。宗教界の人々はいまだに信仰のみによって救われると信じ、主を信じれば罪を赦され、問題が解決すると信じているのです。主の憐れみと愛によってどんな罪を犯しても赦しを得られ、主の再臨で天国に招かれると思っています。そのため、終わりの日の全能神の裁きを拒むのです。彼らに問題があります。神の働きを理解しているでしょうか?神の義なる性質はどうです?神に反抗して逆らうサタンの輩を神が御国に入れるのでしょうか?そうです。あり得ません。このような者が神の御国に入ると、どうなるでしょうか?例を挙げましょう。ヤーウェ神を信じるイスラエル人が神の御国に入ると、どうなると思います?彼らは神の受肉である主イエスを受け入れず、その上あらん限り非難し、主を十字架に磔にしました。この神に逆らうサタンの輩が神の御国に入れば、神に逆らい続けると思いませんか?彼らは反乱を起こし、主の玉座を奪おうとするのでは?主イエスはなぜユダヤの会堂で説教しなかったのでしょう?それはユダヤ教の祭司長や律法学者、パリサイ人が悪そのもので、何をするかわからなかったからです。主イエスは彼らに囚われたあと、鞭で打たれ、ののしられ、つばを吐きかけられました。そしてローマ政府に引き渡され磔にされました。主は彼らがヘビの同族だと知っていたので、会堂へ行きませんでした。主は終わりの日に戻られたのに、なぜ教会で説教しないのでしょう?それは教会の指導者達が極悪非道で、受肉した全能神が教会へ来ようものなら、警察に通報するからです。間違いなく全能神を共産党政府に引き渡そうとするでしょう。そんな中で公然と全能神の証しができるでしょうか?教会で全能神の証しをすれば、非難され侮辱され、きっと公安局に引き渡されてしまうでしょう。つまり、現在の教会は昔のユダヤの会堂と同じで、神に逆らい、神を拒み、非難する場所なのです。そう思いませんか?これは人類がいかに堕落しているかを示しています。みんな真理に飽きて忌み嫌い、神の再臨を拒み、サタンのように神と対立するのです。もし終わりの日に神が人を裁き清めるために受肉しなかったなら、人類は神に逆らった罪で滅ぼされていたでしょう?

『邪魔しないで』の映画台本から

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